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インターネット落描きマンが思ったことを綴っていきます

西野案件から感じ取るべきだったこと

社会問題

キンコン西野氏が絵本を無料公開したことで、先月ネットで賛否両論(私が観測する限りほとんど否定的意見)があった訳だけれども、1か月経った今もう一度思い起こして整理しようと思う。

 

まず西野案件は西野本人に関わる問題と、提起された無料公開についての問題の2つの問題に分けられると考えている。

 

 

 

まず前者の“純粋な”西野案件は結論が簡単で、“西野はクズ”という問題である。これは「お金の奴隷解放宣言」と本人はカッコつけたつもりだったろうが、資本主義・貨幣通貨制度の現代日本で日々生活する全ての人々を侮辱している問題であって、西野という人間が如何にクズな人格・性格をしているかが分かるだけの問題であるため、これ以上の議論の余地は無い。要するに「見ることが出来ないという人のためにも、作品を無料公開しました。」の1文で実際には済む話であったと思う。あと実はアフィリエイトで広告収入を付けていたこと(実際は事前に告知されていたけれど)や、「無料公開したことでAmazonの売り上げ1位になった」と開き直っておりヤマカンに「事をプロモーションに使っただけだとしたらただのゲスだよね」と言われたことや、明坂さんを名指しでブログにおいて批判したことも、クズ関連の話としてこちらの問題に含みたい。

 

 

そして後者の「無料公開」自体についての問題であるが、私個人としては「喉元過ぎれば熱さを忘れる」ではいけない議論であると思うのである。

私自身、西野案件は前者とは別に「作品を無料公開する」ことも批難されていたと感じていたし、Twitterを見ていてクリエイター各位が「良い作品を無料で公開して『あれが無料だったのにどうしてこれは有料なんだ?』なんてことになりかねない。無料であることは創作活動において市場破壊である。」と言っていることに共感していたし、昨今の基本無料というソシャゲのスタイルがコンシューマゲームの正当な価格の価値観を歪ませているとも感じていたので、多いに共感して事の一部を見ていた。

この時の西野案件に際して、創作界隈において「無料公開」が“悪”な理由、どれほど悪か、といった反応が次にまとめられている。

togetter.com

先日このまとめを読み返していて、コメント欄を見始めたところで自分も喉元過ぎて熱さを忘れていたのではないかと思い直した。出来ればコメント欄まで見てみて欲しい。まとめが無料公開批判一辺倒なのに対して(そもそもまとめだから作成者がそういう意図でまとめたのだろうけれど)、コメント欄では無料公開の何がいけないのかという意見が多いとまでは言わないけれど結構見受けられる。

 

 

要するに「無料公開は悪、なのか」という議論は、情報社会・ネット社会の現代においてもっと根幹にある問題なのではないか、と考え直したのです。(ただし、当の作品を無料公開するという西野案件とは少し話題がズレる場合があります。)

少なくとも、自分がこのまとめをコメント欄まで読んで「無料公開を一概に悪だとすることは出来ない」と考えるに至っています(もしかしたらそのうち変わるかもしれない)。

 

 

このまとめにおける「無料公開は悪である」理由は、有料で請け負うクリエイターの相対的価値を下げて市場崩壊を起こすということである。話は少し違うが創作クリエイター界隈(特にイラスト)では、安く請け負う人間のせいでその適正価格や価格設定がおかしくなっているという話を耳にしたこともあり、無料とまでは言わなくとも非常に安価で請け負われる作品が、全体的価値を下げるということは理解できる。

 

ただそれでも自分が「無料公開が一概に悪だとはいえない」と思った理由としては、一般に無料公開や基本無料は他の方法でマネタイズ(収益を確保)するスタイルを取っているためにビジネスとして成り立っているので、そのサービスにおいて生産者と消費者が納得している以上はそのビジネススタイルを批判は出来ないという理由がある。

言いやすくすると「無料公開を悪だとすると、無料のTwitter検索エンジンも基本無料のソシャゲも悪だ」という言い方も出来るし、しかしそれは今の情報社会では全く意味の無い主張だと思われるので、「無料公開が一概に悪だとは言えない」という着地点となる。

 

では「無料公開」をすることで何がクリエイターに悪さをするかと考えると、「無料」で楽しめるものの“価値”を「無料」であると思ってしまう消費サイドが生まれる問題があり、その意識が悪さをするのだと思う。

西野の無料公開とは話が逸れるけれども、「無料」で利用することが出来るものがなぜ「無料」でいられるのか、マネタイズについて考えてみることが、今の世の中消費サイドには必要不可欠なのだと思う。例えば基本無料のソシャゲがあって、課金するかしないかは消費サイドが決めることであって、課金しなければ無料でゲームを楽しむことが出来る。ただしその場合、コンシューマだと考えられなかったスタミナやシステムの制限が課せられることがあり、コンシューマ全盛時代の人間からするとゲームとは言えないような面もある。しかしソシャゲはソーシャルと名の付くように、そのゲームをする人々のゲームにおける優劣がいわばゲーム性を作っている。だからソシャゲは基本無料だけれど、基本無料に釣られてゲームをするユーザーもゲームの価値として組み込まれて、課金者が課金する価値となる。ゲームをすること自体は無料で出来るけれど、ゲームの価値自体は全体を通して見れば“無料”ではなく存在する。

例えば商業漫画が無料で読めるアプリがあって、(それらに限らず)広告収入によって収益を上げているものが世の中にはたくさんある。確かに消費サイドは無料で読めている気になってはいるけれど、直接は目に見えない所で広告掲載料がその作品へ払われており、作品の価値が“無料”であるとは言えない。

つまり今の世の中、お金の回り方が面倒くさいことになっているけれど、基本無料とはされているけれど、作品やサービスには“無料”ではない価値があり支払われている。その流れを考えること無しに、目の前の商品・サービスが無料であると謳っているからと言ってそのもの自体が無料であると考えることは、意識問題であると思う。そしてその作品・商品・サービスには作成者がいて、対価が支払われているはずなのだ。

 

そろそろ何が言いたいのか分からなくなってきたけれども、単純に「無料公開は悪」だということは、情報社会においてその価値の決め方が変わってきたために一概にそうだとは自分は言えないということであります。

 

ただし、やはりそもそもの西野案件とはこの話題は少し乖離しているため戻ると、あくまで自分の作品(西野の場合実際には個人の作品では無いが)を無料公開するという点では、西野の一作品が絵本業界は比較的小さな業界であるとしてもダンピングを引き起こすとは思えないというのが個人の感想でありまして、もしこの程度で価格競争だとかダンピングが顕現するのであれば、よほど無料に眼が無いそれこそ“お金の奴隷”のような消費者がたくさんいるのだなぁと思いますし、まさに嘆かわしい事態です。作品を無料で享受することが出来るという意味・実態について、基本無料や様々なソフトなどが無料公開されている今だからこそ、考えていきたいと思います。